やってもたー!日記

大阪・門真でライブカフェやってますが、内容はそのことだけにこだわらず自由に投稿してゆきます。最近公私共に「やってもたー!」と思うことが多いのでこんなタイトルになりました。暇つぶしに楽しんでもらえると幸いです。

チョレイ問題に関して思うこと

卓球の張本智和選手の快進撃が凄いようですね。
卓球界については良く存じていませんが、弱冠13歳の中学生でここまでの活躍はすばらしいようで賞賛すべきでしょう。


一方で、彼が得点するたびにあげる雄たけびチョレイー!!が物議を醸しているようです。
相手選手に対して失礼ではないか、スポーツマンシップに反していないかということですね。そしてチョレイの意味についてもいろんな推測が飛び交っていたようです。


ワタクシは軟式の草野球ながら野球を嗜んでいるのですが、相手選手、例えば投手がいちいち三振を奪うたびに「チョレイー!!」と雄たけびをあげたのであればスポーツマンシップに反する威嚇行為だ、として審判に注意を促すでしょう。遅延行為ともとられかねません。


ワタクシとしてはあまり気持ちの良いものとは感じていませんが、卓球界には卓球界の掟があるのでしょうから、門外漢が不快だ!と言うのも意味無いかと思われます。
福原愛ちゃんの「サーッ!」は彼女の愛らしさもあって世間にも認められていましたし。


「チョレイ」の意味についてはもうすでにご存知の方が多いとは思いますが、意味ないそうですね(笑)
初めて聞いた時は、張本という姓も在日朝鮮人の方の多い姓であることも相まってこれ韓国語?なんて考えておりました。プロ野球の名選手張本勲氏が在日韓国人であることも有名ですから。
実際は張本智和選手はご両親が中国人で、彼自身はすでに日本に帰化されているようです。お母様がおっしゃるには「チョレイ」に意味はなく、小さな頃からの口癖のようなものだとか。



さあ、ここからは少々ディープな話に移ります。
ご想像の通り差別に関する話です。
この手の話に不快感を覚える方はこの先ご遠慮ください。


すでに述べたように、「チョレイ」に関してとやかく言うつもりはないのですが、表向き理解しているようでもやはりなんだかモヤモヤしたものが心のどこかに残っていて拭い去ることが出来ません。つまり反感を捨て切れません。


福原愛ちゃんは可愛いと思えても張本選手にはなぜだか反感を覚えてしまうその理由、
それはやはり彼が人種的には中国人だから、という事実!
意味はなくとも中国語若しくは韓国語を想起させる「チョレイ」の語感。
ここは日本なんだから「よし!」とか叫べばいいのに、みたいな。
最近の日朝・日中関係情勢もあり韓国北朝鮮中国には正直言ってどうしても反感を覚えています。
どうですか皆さん、同じように感じている人は少なくはないと思います。


元々は日教組教育の賜物なのか、中国に対してはこれといった反感もなく、仲良くすべき隣国なんだろうな、程度に認識しておりました。


ところが新婚旅行で米国のグランドキャニオンを観光していたら中国人のオッサンがいかにも居丈高な態度で「写真撮るからお前らどけ!」と言いながら(多分)シッシッと手を横に振ってワタクシ達を追い払おうとしてきました。
この時から中国人に対するワタクシの反感が芽生えたのかもしれません。


多くの方がそうであるように子供の頃は世界の人々はみんな平和を願っていて、友好を深めていくことが出来るんだ、と思っていても現実を知って考え方が「しゃあねえな~」みたいに変わってしまいます。


それ以後みんなとは言わないが、大阪ミナミで商店街いっぱいに大手を振って歩き爆買いしまくる富裕層中国人やカリアゲ君を頭領とした朝鮮労働党の数々の狼藉、中国によるほぼ侵略といえる海洋進出や異人種に対する粛清、いまだに従軍慰安婦問題とやらに固執して韓国内のみならず世界中に慰安婦像を設置しようとする韓国、数々の問題があるためどうしてもかの国の人たちには警戒感を持ってしまいます。


極端な例かもしれませんが、娘が韓国人の男性を連れてきて「結婚して平昌に住みたい~!」なんて言い出せばワタクシなら絶対反対するでしょう。


正直に言います、以前にも正直に言いましたが、ワタクシは中国・朝鮮人に対して差別感情を持っていることが否定できません。人間が小さいと言われればそのとおり。
身近な外国人でいい人となら上手くお付き合いも出来ますし、しています。
でもなんだろう、メディアなどを通して見る朝鮮人中国人の総体みたいなものに対して反感を持ってしまっているんだろうな。
もっと人そのものを見なきゃイケナイな。
日本人でもそうかもしれない。個人としてはいい人なのに組織となってしまうとおかしな方向に行ってしまう、みたいな。
皆さんはどうなんでしょうか?
差別はいけない、と言うのは分かっていても心のどこかで後ろめたい差別感情を持ってはいませんか。


差別感情は誰にでもきっとあります。生命体である以上はそれは避けて通れない。
差別はいけない!と声高に叫んでいて、外国の貧しく苦しんでいる人たちを見て「かわいそう」と思うことからして、すでにその人たちを上から見ているのではないかと思います。そういう人たちは自らの差別感情を否定するために叫んでいるのかな?
否定したところで仕方がない、むしろ認めた上でその差別感情と上手に折り合いをつけて、まずは身近な外国人や弱者と上手く付き合うことが大事なんだろうな、とワタクシは考えるのです。
なによりも、みんなきっと差別心をもちながらも、より大きな慈しみの心も持っているのだと思う。なんだかキリスト教的ですね。